2017年07月23日

似ている?

 こう表現すると各方面から、それはちがうという声が聞こえてきそうだけれど、近年になって学び始めたアドラー心理学と合気道、仏教とが、同じような性質を持っていて、少なくとも自分への影響、という意味で似ていると感じずにいられないのである。
 いずれも、柱はとてもシンプルで、入りやすさがある。入ってみて、そのシンプルさの奥にある難しさを実感するのだ。宿題が山盛りでこなせないのではなく、シンプルに言われていることの真意を理解するためには、とにかく練習と復習をひたすら繰り返していく中で、確かにその通りだ、ということを体感していくしかなく、その過程がまったく似ていると思う。

 アドラー心理学を勉強していたころには、子どもたちが小さく、せっかく勉強で頭でっかちになっても、日々のどたばたの中でその勉強をいかすのは容易ではなかった。テキストはいたって平易に書かれていて、あまり謎めいたことも書いていないのに、それがおぼろげながら体で理解出来るようになってきたころには、子どもたちはもうすっかり大きくなっていた。尤も、勉強は無駄ではなく、家族間や、よその人たちとのやりとりの中でずいぶんといかされているのは確かである。
 合気道はまだ始めて3年足らずで、ようやく初心者を抜け出して、もう一段深いところでの理解を必要とするレベルになってきたところなのだが、これもやはり、師範のお手本は矛盾が無く、見ている限りでは何となく出来そうな気になる。それなのに、実際にやってみるとなかなかその通りには出来ず、組む相手もいろいろなので、何度も繰り返していくとだんだんと、合気道の理論のようなものが見えてくる。見えてくるとようやく、仙人のような偉い先達が言っていたことに筋が通っているのが分かるようになるのだ。今生で体得できるとは思わないけれど。
 仏教はまだまだ入り口で、いくらかの教えを聞きながら、チベット瞑想を教わるのだけれど、教えもそう無茶なことを言っているのではないことは分かる。瞑想も、ちまたではやっているような、気分を良くする、リラクゼーション目的の瞑想ではなく、とにかく「今ある、ということ」を意識する、というだけのことなのに、これがなかなか難しいのだ。

 これらのことから私が学んだのは、とにかく闘うな、ということだった。私は、曲がったことがきらい、というと聞こえが良いが、相容れないものへの寛容さが無く、その都度抗って生きてきた。だからアドラー心理学で、感情的になる必要はない、とか、感情を利用しない、ということや、相手の話を聞く、というシンプルなことを習ったものの、いくらか上手に出来るようになるまではずいぶんと時間がかかった。
 合気道はそれからずいぶんたってから始めたが、そこでもやはり、力を使わずに、しかし降参するのではなく、互いの平和を目指すので、なんだか懐かしい感じをおぼえたものだった。そうでなければ、もっと競合的に相手に勝とうとしていたかも知れない。
 その後平和的に生き、世の平和を目指す(←勝手な解釈かも知れないけれど)チベット仏教に出会えたことは、仏教的に言えば私のカルマなのだが、どれほど成長させてくれるのか未知数でもある。

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年末に一時帰国を計画中です。いろいろと持って行きたい
けれど、スーツケースは一つしかないし、そもそもスーツ
ケースは重くて、持って行ける荷物が減るので、段ボール
を考えていましたが、とても軽い、古い古いものを発見。
さらに、段ボールを運べる小さな折りたたみのキャリアーも
3ドルでゲットしました。

見つけて!
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posted by ふにゃこ at 19:52| Comment(0) | 学習編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月15日

学び方

 専門学校で勉強していて違うなぁと思ったのは、学生の授業の受け方である。インタラクティブと言えば聞こえはよいのだが、質問をたくさんする。それ自体は、積極的なことでもあり良いことだと思うのだけれど、その質問が自分から見るとなんとも、基本的というのか、先生が説明していたではないか、と思うようなことや、ちょっと調べればすぐに分かるだろうに、ということもかなり多く、不思議に思っていた。
 日本の学校ならば、先生の説明とスライドや動画など与えられている資料のどこかに書いてあることなので、分からなければ自分でもう少し調べるだろうし、あえて先生に質問をする人は少ないというような内容である。

 そんなことを長女にぶつけてみると、中学や高校でも同じ現象が見られるようで、長女も、みんなちゃんと先生の言うことを聞いていないのかなぁという印象をもっているようだった。先生も一つ一つ質問に答えようとするので、ときに授業の内容が一向に進まないということもあって、困ってもいる。
 そんなこんなで、とにかくも質問も出尽くして、各人がそれなりに分かったと感じている段階になると(専門学校での話で、高校では必ずしもそうではないようだけれど)、その人の理解している範囲で他の人に教えることができる、と感じるようになるようなのだ。正しく理解している人に聞けば、間違いなく教わることも出来るのだけれど、間違って理解している人でもかなり自信を持って教えてくれるので、要注意ではある。

 善し悪しはともかく、そこに文化の違いを見る。日本では、先生が間違ったことを教えるなど、あってはならないことで、生徒は先生の言うのを鵜呑みにしても大丈夫で、聞いて理解することが求められている。その段階で、分かったものが分からないものに教えられるかというと、必ずしもそうではない。
 習ったことをだれかに伝えてみようとすると、自分がきちんと理解出来ているところと、まだよく分かっていなかったところがあぶり出されるもので、何が分かっていないのかを知るためにも、だれかに説明してみたり、質問されてみたりすることはもっとあってもよいだろうと思う。
 ただし、まだ十分分かっていない段階で、他の人に教えようとすると、それは他の人の不利益になることもあるから、やはりよく気をつける必要はある。

 合気道でもアドラー心理学でもそうで、先生の言っていることは、何度も聞いているうちに何となく分かった気になってくる。そこでだれかを相手に稽古してみると、思っていたほど分かっていなかったことが判明することもあるし、何度も稽古しているうちに、ようやくつかめてくることもある。そうなれば、自分なりの理解だけれど、という前置きは必要だけれど、求められれば人に伝えてみることはできるかも知れない。
 そして、とかく教える立場になるととたんに高飛車になって、こんなものも知らないのか、という姿勢で強圧的になる場面が、ブラック企業の現場や、何かハラスメント的な場面でよく見られるが、マスターするまでは語らず、マスターしたものには従う、という傾向が日本では一般的になってもいるように思う。するとお互いの間に緊張も生まれてしまうので、もう少しゆるめてもよいのかも知れない。やはりどちらからも取り入れる点はあるものだ。
 まだ少し考えがあちこちいっている気もする・・

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ある日のきれいな月。乳国の冬場の大気汚染は、
一般的なイメージとはちがって、少々深刻です。
それでも、天体観察にはうってつけではあります。

打ってみて^^;
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posted by ふにゃこ at 20:19| Comment(0) | 学習編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月09日

試験当日

 今回は同じ級を受けるメンバーが他に5人もいて、実際のレベルもまちまちだったので、(しかもそれでも、いつもほぼ全員が合格するので)多少気楽な気持ちで当日を迎えた。スタートは10時からということで、シェアランチのおにぎりを持参して行くと、交通渋滞でまだ師範が到着していないということだった。袴を履いていると、なんと試験は朝からだということを聞いてびっくり。毎回、前半に師範の稽古があるので、今回もその稽古で調子を整えてから試験に、というつもりでいたので、じたばたしても仕方ないのだけれど、少し焦った。

 10時前に到着した師範は、ひどいカゼを召されていた。師範の右腕のサイモン先生に判定は任された。
下の級から順番に試験していくのだが、5級が3人、4級が一人で、すぐに2級の番が来た。2級は6人もいるので、半分に分けることになり、幸い?キャリア長目の比較的上手組が先に受けることになった。
 いつも困るのは、合気会が定めている試験のシラバスと若干の違いがあり、そのつもりで練習していると、思わぬ方向から指示が来て戸惑うことである。今回も、順調に進んでいくうちに、まさかそんなものまで!?と焦ることになる。

 前半組はそれなりに上手にやっていたが、やはり後半にややこしい技を求められたり、自由技でも立ち往生したりしていたので、このくらいのレベルでよければどうにかなりそうだなと変なところで安心しもした。合気道の技は、左と右、表と裏、とでセットになっているものが多く、一つの技に対して4回することになっている。だが、技によって、初めに右足を出すのか左足を出すのか、というところから混乱することがあって、まごまごするのだが、昨年段を取ったベンが、とにかく右足が前というのからスタートすれば、あとは受けが対応してくれるから、というアドバイスをして、その後からはみんな迷うことがなくなっていたのだった。

 入ったときにはまだ小柄だった少年たちも、たけのこのようにすくすくと成長して、今や私たち親子がダントツで小さいので、だれが受けをやっても、とにかく相手は大きくてたくましい。それなのにまさかの、腰投げ、と言われた。幸い、比較的小柄なクリスが受けをしてくれていたのだが、それでもいくらか足下がぐらついた。
 自由技は私の尤も苦手とするところで、楽器演奏でもプレゼンテーションでも、とにかく自由にアドリブで、というのが出来ない。しかも、片手取りの自由技ばかりにフォーカスしていたのに、両手取りも諸手取りもなんでもありだった上に、クリスがなぜか両手ばかりを取ってくるので困ってしまった。まるでダンスか、というほどくるくるまわるよりなかったり、出来映えがひどいなーと我ながら情けなかった。自由技は場所が必要なので、一人ずつ順番にするのでなおさらである。

 ともあれ全員がなんとか合格し、サイモン先生からも、昨年のようにスピードアップしてしまうこともなくて良かった、という評をいただいた。
 午後には、ぼろぼろだった師範も畳の上では別人のように元気に指導されていた。普段の稽古でもやもやしていた点について具体的に聞く余裕こそなかったが、お手本を見て、技のチェックをしてもらっている限りでは、やはり自分の感性を信じる方がよさそうだと思うのだった。オークランドがもっと近ければ、たまのセミナーに参加出来、もっときちんと教わることもできるのにな、と少し残念に思うが仕方がない。

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最近写真を撮ることがなくなり・・・
セイゲニストにとって、ごはんの代わりはなかなか
見つけにくいのですが、スリランカ人の友人から
教わったココナッツのごはんがけっこうよかったので
試行錯誤中&ヨーグルトが食べられない長女のために
ザウアークラウト。

お試しください^^
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posted by ふにゃこ at 17:40| Comment(0) | 学習編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月02日

もやもや合気道

 どうしようかと迷っていたが、再び昇級試験を受けることにした。今生で段取りは無理かも知れないが、せめて一級くらいまでとれればがんばった証になるかも・・? 前回の試験では、それまでのものに比べると項目がぐんと増え、年齢のせいもあって体が型を覚えにくくもなっているので、たくさん動画を見てスタンダードな型を見たり、文字で説明されているものを読んで(合気道関係のブログにはなぜか聴覚型の文章が多い・・)稽古に励んだ。
 流派によって、袴を着用する段階が若干ちがうようだが、神龍館では女性は三級から着用が許される。男性は段を取るまで履けないので、なかなか道は遠い。それはともかく、確かに四級と三級の間には、確かに初級と中級のちがいがあるように思われる。三級をいただいてからは、合気道の動きが少しずつ読みやすくなっていったのは確かだった。

 けれどもそのころから、道場長の動きが違ってきた。もともとのスタイルに拍車がかかったといえばそれまでなのだけれど、国際大会に行ってみたり、日本での合宿に参加してみたりするたびに、技がちょっと雑になってきた印象があるのだ。上級者になっていくと、余計なものがとれていって、どんどんシンプルになっていくのは分かるのだけれど、それでも初級者が習うような基本技がブレてはいけないだろうと思う。
 日本人であれば、初心に返ってお手本に忠実に、というのは当然だと思うだろうけれど、こっちの方がクールだ、と思うとすぐにマイナーチェンジしてしまうので、お手本を覚えようとしている側としては混乱してしまうのだ。
 だから合気会系列の、基本技の動画を拾って自習するのだが、覚えた型で練習していると、「基本技」に従うように、と指導が入ってしまう。道主出演の動画でそう教えているのに?と聞いても、乳国の師範がそうやっているから、というのである。けれど、年に一度師範がタウランガで指導するときに、そうした違和感もないので、ときに誇張した形での指導や特別印象に残った部分が、師範がそうする、ということになってしまっているのだろうと思う。
 柔道や空手などとちがって、試合のない合気道では、多少型がちがっていてもなかなか修正する機会がないのかも知れない。やはり何事も初めのうちについた型をあとから直すのは容易ではなく、そこに疑問を持たない限り、すばらしいお手本を見ても、その動きフィルターで見ているので、結局根本的に変わることはなさそうだ。それでも、イギリス仕込みのチャーリーや、段を取って以来かなりストイックに勉強するようになったベンもいるので、地道に続けていこうとは思っている。

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チベット仏教の講話会。ちゃんと正式に祭壇も
作っています。まだまだ入り口だけど。

出口です^^;
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posted by ふにゃこ at 20:08| Comment(0) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月25日

チベット仏教

 日本にいた最後の何年か、ブッダや仏教について少しだけ知る機会があった。本当にさわりだけなので、ある外国語についてあいさつだけ知っている、というようなレベルである。けれど、そのさわりの部分だけでも、十分に魅力的だった。何よりも、個人の幸せだけでなく、世界全体、この世全体の未来についてのしあわせも考えていることが、いいなぁと思った。
 そしてひょんなことから、チベット瞑想会の存在を知った。今年になって南アフリカから移民してきた若い夫婦と知り合った。彼らは学歴もキャリアも申し分なく、本国にいたときに乳国の永住権を申請し、時間がかかると思っていたら2ヶ月ほどであっさりと受理されてしまい、権利を失わないうちに急いで入国しなくてはいけないから、と家財道具を始末して、仕事も決まらないうちにやってきたのだった。

 二人ともケトジェニックダイエットをきちんと実践しているサイエンティストで、飲む水やオーガニック食品などへのこだわりもあるので、タウランガのどのようなところで、そうした食材や情報が手に入るかを調べていたところ、Meetupという、グループ活動を目的とするSNSにそんなグループを見つけたのだった。そして、彼らほどのレベルではないが、ローカーボを実践している私にもそのグループに参加してはどうかと勧めてくれたのだ。
早速Meetupに登録してみた。ただ、そのグループは集まりが夜なのと、食餌療法関係の西洋的グループへの個人的な偏見(宗教じみた人がいる)とで、そこには参加しないことにしたのだが、Meetupお勧めのグループ紹介のような形で、チベット瞑想会の案内が来た。
 会場はいつものシマである、ヒストリックビレッジの正面というアクセスの良さ! 説明文を見ると、どうやらチベット人の尼僧さんが主催しているらしかった。

 昨年末に、町のアートギャラリーで3人のチベット人僧侶さんたちが砂絵を描いていたのだが、その人たちがどこから来て、何をしているのかを追跡できなかったのだが、あるいは関係があるのだろうか、と思ってもみた。
日本でもチベット仏教の講話会などが催されているのだけれど、浜松での状況は分からないし、あるいは遠くまで出かけていかなくてはいけないかも知れないことを考えると、車で10分ほどのところで行われているのは何ともありがたいことだと思った。もちろんブッダの教えを説く時間もあるということで、早速行ってみることにしたのだった。

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16歳。甘いものを食べない彼女のために妹が作った
レゴケーキ。おさしみでも、と思ったけれど、よい
アジが見あたらず延期に。代わりにまるまるチキンの
スモークで。

ありますよ!
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posted by ふにゃこ at 17:21| Comment(0) | 学習編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする